閲覧ありがとうございます。主婦のはつがカエデです。
不安・パニック障害があり、臨床心理士のカウンセリングに通っています。
ある時、臨床心理士さんから「嫌われる勇気」を勧められました。
あなたは「おせっかい焼き」「長男・長女」「人から頼られる存在」ではないですか?
そして「なんか人間関係って、重たくて苦しいな」とか思ったことありませんか?
もしかしたら無意識に「他人がやるべきこと」まで背負っているかもしれません。
課題の分離ができてないと、対人関係でトラブルが生じやすくなります。
この記事では「嫌われる勇気」の「課題の分離」「他人の課題」について、
そして「嫌われる勇気」とは何なのか、自分の体験談も含めてまとめてみました。
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境界線(バウンダリー)について
「課題の分離」や「他人の課題」の話をするなら、
境界線(バウンダリー)について知っておいた方がわかりやすいと思います。
境界線とは自分と他人の境目(さかいめ)の事を指します。
「物理的なテリトリー」とかではなく「目に見えない心の境目」って感じです。
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私はこのように考えています。
「自分のこの範囲、この話題から、他人に入ってきてほしくないな」
「他人の事について、ここまで踏み込みすぎるのは良くないだろうな」
という「相手が不快に感じる」ラインが「境界線」なのだと、理解しています。
境界線についてもっと知りたい方は、下記のサイトを参考にしてください。
この境界線、臨床心理士さんから指摘されるまで、私もそうだったのですが、
気付かないうちに「簡単に境界線を踏み越えたり、踏み越えられたり」します。
特に親しい関係になるほど、無意識に境界線へ侵入してしまいます。
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よくあるのが親子関係だそうで「勝手に部屋に入られて嫌だった」
「聞かれたくないことまで根掘り葉掘り聞かれて嫌だった」というのは、
自分の境界線に踏み込まれてしまったからこそ、不快な感情が生まれたのです。
逆に、自分が他人の境界線へ侵入してしまったら、相手が不快な思いをします。
しかも怖い所は、自分が「親に境界線を侵入されて育てられた」場合、
他人に対して、無意識に「境界線を踏み越えて接してしまう」のです。
特に「親子間で境界線の侵入が連鎖する」ことはよくあるそうです。
臨床心理士さん2人から、同じような話を聞きました
そうなると自他境界(自分と他人との境目)がよくわからなくなり、
知らないうちに「自分が他人の境界線へ踏み込んでいた」り、
「他人に自分の境界線へ踏み込むことを許してしまっている」なんて事もおこります。
これが対人関係のトラブル(依存関係、ケンカなど)になるのです。
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「世話焼き体質」は他人の課題を背負い込みがち
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おせっかいな人いますよね。頼まれてもないのに色々やってくれる人。
「それやっとくよ」「私がなんとかするよ」とホイホイ仕事を引き受けてしまう人。
代表的なのは過干渉・過保護な親かもしれません。
親が宿題をやってくれる、送迎してくれる、明日の準備をしてくれる。
ですが親子といえど「他人」なので、互いに境界線があるわけです。
つまり「子供がやるべきことを親がやってしまう」のは世話を焼きすぎなのです。
世話を焼きすぎる人は、親と子の境界線が上手に引かれずに育ち、
親子の境界線が混ざりあった状態、一心同体みたいな状態で育った可能性があります。
なので「自分の課題」と「他人の課題」を一緒くたに考えてしまいます。
すると「他人がやるべき課題を、自分の課題だと思って引き受けてしまう」
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でもそれは「介入」といって、他人の課題(境界線)に踏み込んだ状態です。
それを無意識にやってしまうのが「世話焼き体質」です。
私もそのタイプで「困っている人がいたら私が何とかしなきゃ」と思ってました。
両親の不仲の問題や、弟の引きこもりについても、自分が何とかしなきゃと思ってました。
でも心の中では「やりたくない、でもやらなければならない」という葛藤があり、
「なんか心が重たいな、しんどいな」と感じていました。
そんな話を臨床心理士さんに話したところ、
「人はそれほど多くのものを抱え込めない。他人の人生を背負わなくてもいい
夫婦間の問題も、弟のひきこもりも「あなたの課題」ではない」と言われました。
それを聞いて私は「自分は他人の問題を背負い込んでいたんだと」初めて気づきました。
本書でもこのように書かれています。
「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」(中略)本人の意向を無視して「変わること」を強要したところで、後で強烈な反動がやってくるだけです。(中略)自分を変えることができるのは、自分しかいません。
嫌われる勇気 p142-143 より引用
他人の課題を背負い込むようになると「自分の課題」に手が回らなくなり、
相手も「この人なら自分の課題を肩代わりしてくれる」と依存されてしまいます。
なので自分もしんどくなるし、相手も「自分の課題」を解決しようとしなくなります。
こうなると自分も相手も「自分の課題」に取り組めなくなります。
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よく考えたら、私は親や弟だけでなく、友人や上司にも世話を焼いてました。
友達同士のケンカを仲裁したり、不機嫌な友達の機嫌を取るような行動をしてました。
上司の機嫌が悪かったら、とりあえず頭を下げたり、やっぱりご機嫌取りをしたり…。
つまり「他人の課題への介入」を無意識にやってたんですよね。
そんな他人の課題を背負いこみがちな人は、人生が重く苦しいものになります。
嫌われる勇気でアドラー心理学を説く哲人も、このように語っています。
他人の課題に介入する事、他人の課題を抱え込んでしまう事は、自らの人生を重く苦しいものにしてしまいます。もしも人生に悩み苦しんでいるとしたら(中略)「ここから先は自分課題ではない」という境界線を知りましょう。そして他者の課題は切り捨てる。
嫌われる勇気 p146より引用
「課題の分離」「嫌われる勇気」とは何か
課題の分離について、本書ではこのように書かれています。
「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。
(中略)
対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むことーあるいは自分の課題に土足で踏み込まれること-によって引き起こされます。
嫌われる勇気 p140より引用
つまり「自分のやるべきこと」と「他人がすること」を分けましょうという事です。
本書にある通り『他者の課題には介入せず、自分の課題には誰一人として介入させない』
そうすれば、今までの「他人の課題を勝手に背負い込んで不自由さを感じ」て、
人生にしんどさや生きづらさを感じることもなくなるでしょう。
おそらく、課題の分離がうまくできない人は、私もそうだったのですが、
親から「自分の境界線を侵されて」育ってきた可能性があります。
「親の機嫌をうかがって育ってきた」「親に勉強しなさいと押し付けられてきた」
「いい年になっても親に身の回りの世話を焼いてもらっている」など。
すると自分の課題に立ち向かう勇気をくじかれ、自分の課題から逃げるようになります。
「自分の人生を他人任せにしている」「他人の期待を満たすように生きている」
すると「他人に導いてもらう、他人に認められないと生きられなく」なり、
誰からも嫌われたくないので「相手が求める嘘の自分」を演じるようになります。
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ですが他人が「自分をどう思うか」まで考えていると、不自由さを感じて辛くなります。
相手が自分の事をどう思うか、それはあくまで「相手の課題」なのです。
じゃあ「自由とは何か?」を考えると、本書ではこのような結論になるそうです。
「自由とは、他者から嫌われることである」と。(中略)
たしかに嫌われることは苦しい。できれば誰からも嫌われずに生きていたい。承認欲求を満たしたい。でも、全ての人から嫌われないように立ち回る生き方は、不自由きわまりない生き方であり、同時に不可能なことです。自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。そして対人関係における自由とは、他者から嫌われることなのです。
嫌われる勇気 p162より引用
なので自由に生きたいのなら、他者の評価を気にかけず、他者から嫌われる事を恐れない。
でないと自分の生き方を貫くことはできない、つまり自由になれない、と書かれています。
本書でいい表現だなと思ったのは『対人関係のカードは、「わたし」が握っている』
承認欲求に縛られていると、対人関係のカードはいつまでも他者の手に握られたままです。
なので「課題の分離」を行い、自分の課題に集中する(皆に好かれる自分を意識しない)
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「他人の課題」まで考えたり、背負い込んだりする必要はないのです。
合わない人に無理に合わせなくていい、対人関係のカードは自分が握っている。
それが自分と他人との「課題の分離」であり「嫌われる勇気」なのです。
「課題の分離」は子育てでも大事
「課題の分離」は子育てでも大事です。
冒頭でも話した通り、親子はつい「自他境界があいまい」になりやすいです。
特に子供は「母親は自分の一部である」と思い込んでいるため、
小さいころは「母親が思い通りにならないと怒る」なんてこともあります。
精神科医の益田先生の、次の動画を見てもらうとわかると思います。
ですがどこかで母親と子供は他人であり、境界線があるという事を、
母親も子供も自覚し、意識して、自立していかなければなりません。
なぜなら「子供の世話を焼き続ける(子供の課題を親が代わりにやる)」と、
子供は「自分でどうにかしよう(自分の課題に取り組もう)」と思わなくなり、
子供はいつまでも「親が代わりに(自分の課題を)やってくれる」と思ってしまいます。
こうなると子供は「自立」どころか親に「依存」してしまい、巣立てなくなります。
親が「子供の世話を焼き続ける選択」をしたことで、
子供は「親なしでは生きられない」という結末が待っているのかもしれないのです。
実際に私の身の回りにも、結婚しても親にべったりと言う人が何人かいます。
子どもとの関係に悩んでいる親は、「子どもこそ我が人生」だと考えてしまいがちです。要するに、子どもの課題までも自分の課題だと思って抱え込んでいる。いつも子どもの事ばかり考えて、気がついた時には人生から「わたし」が消えている。(中略)
たとえ我が子であっても、親の期待を満たすために生きているのではないのです。(中略)むしろ距離の近い家族だからこそ、もっと意識的に課題を分離していく必要があります。
嫌われる勇気 p145 より引用
だからといって「子供は放っておけ」というわけでもありません。
本書ではこのように説明されています。
子供がなにをしているのか知ったうえで、見守ること。勉強についていえば、それが本人の課題であることを伝え、もしも本人が勉強したいと思った時にはいつでも援助をする用意があることを伝えておく。(中略)あれこれ口出ししてはいけないのです。
嫌われる勇気 p142 より引用
つまり「援助」はするけども、最終的に選択するのは子供本人である。
選択した・しなかった場合の結果は(どんな結果でも)子供に受けさせる。
その結果から、子供は「次はどうしようか」と自分の課題として考えるようになります。
じゃあどこまでが親(自分)の課題で、どこまでが子供の課題なのか、って思いますよね。
「誰の課題かを見分ける方法」は、本書でこのように説明されています。
その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?
嫌われる勇気 p141 より引用
子供がうるさいので、子供の言いなりになりつづける(子供の課題を代わりにやる)と、
最終的に子供は「親がいないと何もできない」ようになるかもしれないし、
苦労しないように、親が子供の人生のレールを敷く(子供の課題を代わりにやる)と、
やっぱり子供は「親がいないと何もできない」ようになるかもしれません。
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なので「自分の課題」と「子供の課題」は意識して育てた方が良いかもしれません。
親子と言えど、自分と相手の境界線は意識しておいたほうがいいと思います。
ただ子供によって、親のしたことが「必要な援助」になるのか、
「不必要な干渉」になるのか、その線引きが難しいなって思います。
そこは「選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」
つまり「それをやると子供は将来どうなるか」を考えた方が良いですね。
まとめ
私は臨床心理士さんによるカウンセリングをうけるまで「課題の分離」を知らず、
親子関係・友人関係・職場、あらゆる対人関係で、
「他人の課題」を「自分の課題」と思って、勝手に背負い込んでました。
結果「誰にも嫌われたくない」「誰からも頼られたい」という気持ちから、
他人に認められる自分を演じるようになり、人生がとても重く辛いものになりました。
でも演じ切ることができず、時には「カエデだったらやってくれると思ったのに」なんて、
言われたこともあります。つまり「他人にとって都合のいい人」になってたんですよね。
人生をシンプルに、自由に生きたいなら「自分の課題」と「他人の課題」を切り分ける。
そして『他者の課題には介入せず、自分の課題には誰一人として介入させない』
それは親子関係でも言えることなので、しっかり意識しようと思っています。
どこまでが自分の課題なのか、他人の課題か迷った時は、
「選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」
誰が最終的にその選択の責任を負うことになるか、で考えればいいですね。
![](https://www.kaede.blog/wp-content/uploads/2024/02/courage-to-be-hated-eye-320x180.jpg)